町議会議員から老人介護施設の経営者へ 介護事業に深く関わったきっかけは、おばあちゃんのトイレ介助 【株式会社とわに】(上) 遊撃する中小企業 〜がんばってますけど、何か?

地域企業
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代表取締役 野崎聖剛

株式会社とわに
創業:2012年11月12日
事業内容:介護事業(共生ステーション、通所介護)
従業員数:20名
所在地:佐賀県唐津市原82-1
経営理念:寄り添う心

小動物が共に暮らす老人介護施設

開業したのは、2012(平成24)年11月。会社名は、「永遠に」続くことを祈願し、「とわに」と命名しました。唐津市原で「老人介護事業」を営んでいます。現在、施設は1店舗。定員は25名で、常時お泊りは17名。残りの8名は通いとショートです。職員は、私を入れて20人。25人の定員の場合、規定では従業員が5名いればよいのですが、当社では7人~8人、多い時は10人で対応しています。全員で20人という従業員数も、常時対応しているスタッフ数も業界基準より多いのは、この仕事は人(スタッフ)が重要だからです。対応するスタッフが多ければ、より手厚いサービス(介護)が提供できます。また、従業員もある程度気持ちにゆとりを持って働けることから、職員の定着率も非常に高いです。

利用者さんと職員が互いに顔を覚えあい、信頼できる関係性を築く。また、ご家族からも、入所から看取りまで一か所で安心して利用できると思っていただく。当社は、そんな施設を目指しています。利用者さんがお亡くなりになられた後も、ご家族が施設を定期的に訪れていただくなど、関係が継続している方も少なくはありませんので、少しは形になってきているのではないでしょうか。

施設では、犬が2匹、猫が5匹、インコが5羽、他に鯉に金魚・グッピーなどの小動物が一緒に暮らしています。たまたま保健所から引き取り手がいないかと声を掛けられて、犬が2匹来たのが始まりでした。私はあまり動物が好きな方ではないですけど、施設長がそういう捨てられた犬とか猫とか放っておけない性格で、「ちょっと助けてやったら」というのがきっかけでした。

動物たちは、大半が施設のホール内で飼われていますので、朝は必ず鳥の鳴き声がしています。施設に来た最初の猫は野放し状態で、施設の中をウロウロしています。最近では鯉も大きくなり、900ℓの水槽も手狭になったので、私がひとりで敷地内に池を掘り、水を引きました。一般のご家庭でも、犬や猫がいますよね。施設でもご自宅に近い環境が利用者さんに提供できたらと思いやっています。

私の日課は、朝7時の犬の散歩に始まり、夜7時の犬の散歩で終わります。小動物のほとんどを私が世話をしています。私は社長ですが、当施設の飼育員です。それで良いのです。そうすることで職員も介護に集中できますので。外回りの管理は私、施設の中は施設長に任せています。

町会議員から老人介護へ

私は35歳の時、生まれ育った浜玉町で町会議員に立候補しました。
当時は、実家の蒲鉾屋を手伝う傍ら、小学生や中学生を対象に野球やマラソンのコーチをしていましたが、広いグラウンドで子どもたちを自由に運動させたいという思いから、やがて町議に立候補することを決めました。

選挙は、子どもたち(教え子)の家族やいろいろな方の助けで無事当選することができました。町議は3期12年務め、3期目は総務委員長の役を務めました。浜玉町は人口1万人程度の小さな町でしたが、町長がいて、議員がいて、役場職員もたくさんいて、文字通り痒いところに手が届くような町で活気にあふれていました。

思っていることをもっと実行するために町長を目指そうと考え始めたころ、市町村合併で夢は叶わなくなりました。思い直して、唐津市の市議会選挙に出馬しました。市議になって実績を重ねて市長になろうと考えたのです。でも、結果は落選。私は無職になってしまいました。

3つの施設を3か月以内に満室にしたのに、3つとも解雇された

次の市議会選挙までの充電期間と思っていた時期に、介護の仕事に出合いました。介護はしなくてよいからと言われ、次長として入りましたが、1週間で辞めようと思いました。自分には向いていないと思ったのです。女の人ばかりで専門用語が飛び交っていて、あの人は次長で入ってきたのに何もできん、というようなことも言われました。ところが、今日まで続いています。転機はトイレの世話でした。

就任し1週間が経ったころ、私が見守り当番をしていた時です。ひとりのおばあちゃんが「トイレに連れて行って」と言いました。周囲を見回すと、私しかいません。私がトイレまで連れて行くと、そのおばあちゃんが「ズボンを下ろさなできんよ」と言ったのです。困惑しました。だって、女の人のズボンを男が下げるなんて犯罪行為じゃないですか。迷っていたら、もう一度「ズボン下ろさなできんで」と。そこで腹を決めて「1、2の3」で下ろして「ああ、これが介護なんだ」と分かりました。最初のうちは、トイレ介助ばかりしていて、そのうち自分から率先してやるようになりました。それからですね、介護が面白いと思えるようになったのは。

介護の魅力が分かってきて、いろんな勉強もしました。私をいじめる人もいたのですが、負けず嫌いなので、今に見とけよという思いで自分がやるべきことをやりました。そのうちにコロリと態度が変わって、その人たちが私にいろいろと聞いてくるようになりました。その結果、理事長とスタッフの架け橋のような役割も果たすようになりました。

理事長は3つの施設を持っており、3つの施設の施設長を順々に命じられて一つひとつを回りました。真面目に仕事をしていたのですが、介護への考え方の違いでしょうか、理事長に突然解雇を告げられました。これが1度目の解雇です。

すると、別の人が「私と施設を立ち上げませんか」と声をかけてくれたのです。私は施設立ち上げに協力しました。土地は、私が以前町議を務めていた浜玉町で探しました。浜玉町にしたのは、地元の皆さんのために少しでも役に立ちたいという思いからです。町議時代のお付き合いもあり、顔見知りのお百姓さんがすぐに土地を提供してくださり、施設を建てられました。

開設後3ヶ月ぐらいで満室になりました。そこでは、私は施設長でしたが、ゼロから立ち上げて軌道に乗せるまで苦労しました。毎日勤務して寝る時間もないほどでしたが、施設を守りたいという気持ちで頑張りました。しかし、ここも1年で突然解雇されます。原因は、経営方針の違いでした。これが2度目の解雇です。

すると、また声がかかりました。今回は、辞めた施設に出入りしていたケアマネージャーからでした。私の肩書は、取締役・施設長です。ここでも土地探しから始め、再度浜玉町に施設を作り、3か月で満室になりました。

開業してすぐに代表が体を壊して入院してしまいました。3か月後に復帰した代表は、施設を取られたような気持ちになられたのか、退院早々施設にやってきて、私に向って「あなたは代表じゃないでしょう」と言うのです。代表取締役は取締役を解任できることが法律で決まっており、私はすぐに解雇されてしまいました。これで、3度目の解雇です。

私は3年間で3回解雇されました。何故なのか……冷静に自分を見つめると、その原因の多くは私にあったのです。3回解雇され、私は、人に雇われて働くことができないことに気付きました。やっとです。

日本人の美徳は、辛いことがあっても我慢することです。でも私は、それができない。施設のこと、利用者さんのこと、職員のことを考えると、妥協できないのです。ですから決意しました。開業すると。

(下)につづく

この記事について

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