人気の秘密は 常に工夫し続けること 福岡の奥座敷から 日本の良さを世界へ 【株式会社 楠水閣 】(上)遊撃する中小企業 〜がんばってますけど、何か?

地域企業

会長 安永孝義氏
代表取締役社長 安永徹氏

会長は昭和4年生まれ。義父が創設した楠水閣を脇田温泉随一の旅館に育て上げた。一方で若宮町観光協会会長として地域の発展に寄与。
徹社長は昭和37年生まれ。父を支えながら時代に合わせた経営を行い、来客を楽しませる様々な企画を行って高い人気を保っている。

株式会社 楠水閣
創 業:昭和33年
事業内容:温泉旅館・入浴施設と関連サービス業
本社所在地:福岡県宮若市
電話:0949-54-0123
HP:http://www.nansuikaku.com

福岡市に近い温泉郷・脇田温泉に昭和33年より続く温泉旅館。
部屋数29室。館内を貫いて流れる渓谷の風情と、ロビーや廊下まで畳を敷き詰めたしつらえが特徴。
日本ならではの温泉とおもてなしを楽しめる宿として、最近は特に福岡を訪れる外国人観光客の間で人気が高まっている。

庶民向け旅館として昭和期に開業

福岡県宮若市にある脇田温泉は、福岡市と北九州市の中間に位置し、クルマなら博多から約40分、小倉から約50分で到着する温泉地だ。犬鳴川の清流に沿って5軒の温泉施設があり、静かな佇まいが心を和ませてくれる。周囲は美しい自然に溢れており、春は桜や新緑、夏は乱舞するホタル、秋は紅葉、冬は雪景色と、四季折々の美しい風情を愛でつつ温泉を楽しむことができる。
温泉地としての歴史は古く、奈良時代には歌人・大伴旅人が太宰府に赴任した際に入湯したと伝えられている。温泉が湧く場所の意味から最初は湧田(わくた)という地名であったが、転じて現在の脇田(わきた)となった。今も別名「わいた温泉」とも呼ばれている。江戸時代の筑前国続風土記にも温泉名が登場するが、その頃までは静かな湯治場だった。

「皮膚病によく効くということで、近隣から人が集まってきて、滞在しながら治療していたようです」と語るのは脇田温泉で最大規模の旅館・楠水閣会長の安永孝義氏。楠水閣は会長の父である安永弥三氏が昭和33年に開業した。

「弥三は農家の出身でしたが、山林を伐採した材木を取引して財を成しました。脇田温泉は江戸時代に近くの銅山から、明治以降は宮田町の貝島炭鉱から労働者が集まり、いわば歓楽街的な温泉地として賑わっていました。そこで弥三はそういったお客さんを相手に旅館をやろうと思い立ったようです。しかし経営は家族や従業員に任せ、自分は町会議員などの活動に精を出していましたね」

孝義氏は安永家に生まれたのではなく、近郊の鞍手郡西川村(現在の鞍手町)の出身。そこで中学校の教員をしていたが、30歳の頃に末娘の婿として安永家に入った。楠水閣が開業して2年後の昭和33年のことだった。最初は旅館を継ぐつもりはなく、若宮町でも一度は教職に就いたが、サービス業の家人たちと勤め人とでは生活リズムが違いすぎて睡眠不足となったため、1年足らずで教師は辞めて旅館業に飛び込むことにした。

重厚な和の雰囲気あふれる門構え。
JRの脇田温泉バス停がすぐ前にあるので博多まで直行できる。

高度成長とともに規模を拡大

当時は貝島炭鉱が最盛期を迎えていた頃で、そこで働く炭坑夫は「川筋者」と呼ばれる気の荒い労働者たち。「宵越しの銭は持たぬ」と脇田温泉に繰り出しては、芸者を呼んで景気よく遊んでいた。おかげで楠水閣も開業直後から繁盛し、やがて部屋も人も追いつかなくなった。

「創業当初は、トイレも風呂もない4畳半の部屋が10室のみ。『狭い』とお客さんから苦情が出始めたので2部屋をひとつに繋げましたが、今度は部屋数が減って泊まれる人数が減ってしまいます。そこで昭和37年、佐賀県嬉野の和多屋さんを参考に、犬鳴川を挟んで対岸に3階建の別館を建てました」

その後も本館地下1階の大浴場や、宴会や会議用のホール、スナックやゲームコーナーなどを次々に増改築。47年には本館隣に3階建の新館を建設し、楠水閣は3棟から成る脇田温泉一の旅館へと成長した。

「営業しながら作るので『いつ来ても工事中だ』と怒られたりしましたが、反対に『いつ来ても変化があるから楽しい』と褒められたりもして、意外な効果がありました」と笑う孝義会長。もともと理科の教員で建築設計や計算などにも強かったため、趣味半分であれこれ考えながら増築計画を練り、本館と別館をつなぐ渡り廊下での回遊が楽しめる空間を作り上げた。

その頃からお付き合いが始まったのが現在の福岡ひびき信用金庫だ。当時の支店長が申し出て増築に必要な資金をまとめて用立てし、以後は今日に至るまで家族ぐるみのお付き合いが続いている。

やがて昭和50年に新犬鳴トンネルが開通すると、福岡市とのアクセスが格段に向上。企業や地域団体の慰安旅行客がたくさん訪れるようになった。この頃は社会全体の所得が上がって団体旅行がブームとなり、脇田温泉にも福岡・北九州・筑豊地区のお客さんが連日訪れて一番活気があった時代であった。しかし地元の若宮町は未だに寂しい農村地帯。昭和51年には貝島炭鉱が全面閉山となり、活気を失っていた。そこで孝義会長が 町のために企画したのが「招待敬老会」である。

日帰り入浴施設をオープン

これは若宮町に住む60歳以上の方全員を楠水閣に招待し、日帰り旅行を楽しんでいただこうというもの。温泉もお弁当も、お酒までが全て無料の上、仲居さんたちの芸まで楽しめるとあって大変喜ばれた。この企画は「お世話になっている地元に恩返しをしたい」という孝義会長の思いがこもったもので、平成18年に宮田町と合併するまで約40年間欠かさず続けられた。さらに昭和58年にはゲートボール場を新設して招待ゲートボール大会を開催。こちらも若宮町の年中行事となり、町のお年寄りたちに体を動かす楽しさを提供した。

地道な努力と施設整備の甲斐あって業績は伸び続け、小さな山あいの温泉地だった脇田温泉の名は福岡でもよく知られるようになってきた。「温泉だけなら福岡近郊にもたくさんありますが、これだけの自然景観と風情ある温泉街があるのは脇田温泉の強みです」という孝義会長。

しかし昭和が終わり平成に入る頃になると、客層は団体客から家族や友人と訪れる個人旅行に移り始め、一層クオリティの高いサービスが求められるようになっていった。そこで宴会用の大広間を廃して客室を増やす一方、平成10年には本館にエレベーターを設置。お年寄りや 障がいがある方も安心して泊まれるようにした。部屋数が増えると料理を運ぶのが大変になってきたため、 お食事処を設けて仲居さんたちの負担を軽減する配慮も行っている。

さらに平成5年「宿泊はしないが気軽に温泉を楽しみたい」というニーズを受け、旅館とは別棟の山側に露天風呂「湯乃禅の里」を建設。今でこそ日帰り湯は各所にあるが 当時は画期的だった。さらに露天風呂のある入浴施設は福岡では初めてだったので、孝義会長は箱根温泉まで足を伸ばして研究したという。

そうやって生まれた新しい入浴施設は、様々な趣向を凝らした露天風呂が、男女合わせて10種類も配置された斬新なもので、オープン直後から大きな話題となり、週末は脇田温泉に通じる道路が渋滞するほどの盛況ぶりだった。

(下)につづく

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