綿の持つ力を引き出して独自の健康寝具を開発ナチュラル志向の生活者からますます支持が上昇中 【龍宮 株式会社】(上)遊撃する中小企業 〜がんばってますけど、何か?

地域企業

代表取締役社長 梯恒三氏

昭和31年福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)生まれ。
大学在学中に父に請われて家業に。機械工学の知識を生かし、主に技術面から会社を支えてきた。
平成25年に三代目社長に就任。「パシーマ」の売上を順調に伸ばし、商品バリエーションも増やすなど社業を発展させている。

龍宮 株式会社
創 業:昭和22年
事業内容:寝具ほか綿製品の製造・販売
本社所在地:福岡県うきは市
電話:0943-75-3148
HP:http://pasima.com

従業員数40名。
綿の紡績業として創業し、後に脱脂綿・ガーゼ・不織布などの綿製品製造に特化。
現在は脱脂綿とガーゼで作られたオリジナル寝具「パシーマ」を全国に展開中。市内の新生児に無料配布するなど、地域の健康づくりにも貢献している。

綿産業のまちで特殊紡績を起業

福岡県うきは市は北に九州一の大河・筑後川が流れ、南は耳納連山に接する自然豊かなまち。平野部には豊 かな水を生かした水田が広がり、山裾エリアは果樹栽培が盛んで、ブドウや柿などの産地として知られている。そんなうきは市で70年以上にわたり時代に応じた綿製品を作り続けてきた会社が龍宮株式会社だ。同社 の創業は戦後復興が始まったばかりの昭和22年。現社長の梯恒三氏の父・梯禮一郎(れいいちろう)氏が紡績業を始めたことだった。

綿(=コットン)は今でこそ全てを輸入に頼っているが、日本では江戸時代から全国に栽培が広まって、昭和初期から戦後にかけては綿布 輸出量で世界一を誇っていた。九州でも有明海沿岸部で盛んに栽培が行われ、それを商工業の盛んな久留米市とその近郊に運んで布団綿や綿糸、綿布に加工していた。伝統の綿織物・久留米絣もこうした歴史的背景を持っている。久留米を中心にした綿屋たちは九州一円に綿を売って財を築いたが、第一次大戦後の大正不況により没落し、倒産が相次ぐ憂き目に遭ってしまう。当時の浮羽郡田主丸町にあった禮一郎氏の生家も小さな製綿工場を営んでいたが、同じように経営は厳しく、貧しい少年期を過ごした。

早くから家業を手伝っていた禮一郎氏は、太平洋戦争で南方に配置されるも幸い無事に生還。早速製綿業に復帰しようとしたが、戦後の日本はひどいモノ不足で、原料の綿も機械もない。復興しようにも作業着さえない状況だったため、これを解決しようと、古い布団綿から綿糸を紡ぐ特殊紡績のアイデアを思いついた。しかし起業するには資金が必要だ。銀行にはにべもなく断られたが、当時の信用組合(現在の筑後信用金庫)が快く引き受けてくれたおかげで何とか機械を買うことができた。

こうして昭和22年8月に「亀王製綿所」として創業すると、すぐ次々に古布団が持ち込まれて忙しくなり、工員も10人ほどに増えて事業は軌道に乗った。しかし禮一郎氏は そんな中でも「特殊紡績はいずれ廃れる」と予測し、次の展開を考えていた。

脱脂綿と不織布を製造して急成長

そして昭和29年、浮羽郡吉井町(現・うきは市吉井町)への工場移転を機に、禮一郎氏は脱脂綿の製造に乗り出した。脱脂綿とは綿花から取り出した繊維を洗浄・脱脂・漂白して完全に不純物を取り除いた製品で、主に医療用などに使われている。昔からその素晴らしさに注目していた禮一郎氏は、いつか自分の手で作りたいと考えていたのだ。

紡織と脱脂綿の二本柱となったことで会社の体質も強化され、売上は順調に伸びていった。昭和32年には株式会社に組織変更し、不老長寿や健康、自然、平和などへの願いを込めて「龍宮わた株式会社」と名付けた。昭和39年秋には現在の場所に新工場を設立。この年の東京オリンピックを機に日本経済は急速に成長し、同社もそれに合わせて右肩上がりに発展していった。

昭和43年には全国に先駆けて衛生用特殊不織布の開発に成功する。「不織布」とは、文字通り糸を織らずに作った布のことで、当時の製品は安価な合成繊維を圧着したものが主流であったが、皮膚に直接触れると痒みやかぶれ、炎症を起こすことも指摘されていた。このため禮一郎氏は体に優しい脱脂綿を主原料にすることを考え、何度も試行錯誤を繰り返した結果、肌ざわりが良く汚れも広がらない製品を作ることに成功した。これを脱脂綿と合わせて新しい女性用ナプキンと紙オムツを発売すると、その品質の良さが評判となり、龍宮の名は業界のみならず一般消費者にまで知られるようになった。

不織布の製造・販売はその後も伸び続けたため、同社では事業の中心を不織布や綿を使用した衛生材料の製造・販売に転換。創業から25年目となる昭和47年に、社名から「わた」を抜いて現在の「龍宮株式会社」に変更した。翌48年には海外マーケットへの進出を図り、インドネシア、シンガポール、台湾などへの輸出を開始。しかしまさに順風満帆だった昭和49年の12月、同社は思わぬ厄災に見舞われる。当時の主力工場として稼働していた第3工場が、失火による火災で全焼してしまったのだ。

壁一面に貼られているのは、全国から寄せられた お客様からのアンケートハガキ。
龍宮では実際の感想を何より大事にしている。

工場の火災で倒産寸前に

一時は出荷不能の状態に陥ってしまったが、社員一丸となって努力したおかげで、何とか2ヶ月後には操業を再開することができた。売上も徐々に回復し、2月〜3月の売上はなんと前年を上回ることもできた。しかしホッとしたのも束の間、次なる試練が襲いかかる。再建に当たり高価な機械を購入していたが、その費用に充てるつもりだった 保険金のうち、火災保険の8千万円は下りたが、1億5千万円の「利益保険」が支給対 象外となったのだ。頑張った結果が仇となり、火災後でも「利益が出る」と判断されたのがその理由であった。さらに取引先の倒産により600万円の焦げ付きまで発生。昭和52年に資金繰りは最終局面を迎えてしまった。

そこで禮一郎氏は債権者に集まってもらい、正直に会社の状況を説明した。すると債権者達は禮一郎氏を責めることはせず、それぞれ自社で手形を引き取って龍宮を救済することを申し合わせてくれた。これまで一度も不義理などしたことがなかった禮一郎氏の人となりを評価し、再建を信じての行いであった。後に1社だけは約束を守らず不渡りを出してしまったが、主要取引先をはじめ吉井町長、吉井町 商工会などが応援してくれたおかげで、なんとか二度目の不渡りを出すことなく再建への道を歩み始めることができた。

この時同社の取引銀行は、町役場に町長を訪ねて「営利企業を役所が応援するのはおかしい」と異議を申し 立てたそうだ。対して筑後信用金庫の支店長は禮一郎氏を訪ね「不渡りはまだ1回。頑張れば必ず再建できます。力を貸しますから何でも相談してください」と申し出たという。

再建に向けて禮一郎氏が取り組んだのが社業の見直しである。それまで他社に先駆けて開発していた不織布やナプキン、紙オムツなどの分野は大手の進出で競争が激化していたため、撤退することに決めた。そして主力を創業の源である脱脂綿に戻し、これを使った寝具や衛生材料の製造を地道にやっていこうと決めた。

)につづく

この記事について

元気な中小企業は、地域の宝!
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